プレサンス元社長国賠訴訟一審判決の不合理性(その2)-総合評価の放棄?客観的な消極証拠をバラバラにして「全く不合理とは言えない」を連発
- 弁護士秋田真志
- 3月24日
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更新日:4月9日
前の記事でも書いたが、プレサンス元社長冤罪事件国賠訴訟の、2025年3月21日大阪地裁第一審判決は、起訴検察官である蜂須賀三紀雄主任検察官の様々な判断の誤りを指摘しながら、起訴時の判断としては「全く不合理とは言えない」と繰り返し、結果的に蜂須賀検事の誤りを免責した。確かに最判昭和53年10月20日判決民集32巻7号1367号は、起訴時における検察官の心証は、「起訴時…における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りる」(起訴時基準説)としており、起訴の違法を認める場合は、かなり限定的である。無罪事件における国賠訴訟のハードルが高いと言われる所以である。当然、山岸さんの弁護団もそのような最高裁判例は百も承知である。しかし、本件の山岸さんの起訴は、先のブログで述べたとおり、違法な取調べによって検察側の最重要証人となるべき部下Kの供述をねじ曲げた上でなされている。それだけではない。そのねじ曲げられた内容が、多くの客観証拠と明らかに矛盾し、きわめて不合理な内容だったのである。上記最判でも、検察官に「各種の証拠資料を総合勘案」する義務を認めているし、何より「合理的な判断過程」でなければならない。客観証拠に反する形で、重要供述を不合理に歪曲した上でなされた起訴は、上記最判の判示に照らしても、十分に違法というべきである。これに対し本判決は、「法の予定する一般的な検察官を前提として、通常考えられる検察官の個人差による判断の幅を考慮に入れても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達している場合に限られる」との一般論を示した上で、蜂須賀検事の判断は「全く不合理とは言えない」から起訴は違法ではない、との結論を導いた。本判決が示したこの一般論が、最高裁判決に沿ったものと言えるか(明らかに過剰な免責である)、別の一般論が成立するのか、定立された一般論へのあてはめが上訴審での争点になる。
このうち本稿で問題にしたいのは、本判決が示した「全く不合理とはいえない」判断である。本判決における裁判所の判断部分において、ざっと数えてみたところ、「直ちに信用性がないことが明らかとまではいえない」「全く合理性を欠いているものとまでいうことはできない」「他の評価を許さないものとまではいえない」「全く成り立ち得ないというほどのものではない」など、「全く不合理とはいえない」に類する言い回しが少なくとも30回も登場した。驚くべき回数である。
なぜ、このような異常な回数になったのか。その一つの原因は、プレサンス元社長冤罪事件では、いわゆる「消極証拠」としての客観的証拠が多数存在していたことである。これら客観的証拠は、いずれも山岸さんの無実を裏付けるとともに、その関与を認めるかのような部下Kの供述の信用性を否定し、結果として山岸さんの「嫌疑」を不合理とするものであることは明らかであった。本判決が、蜂須賀検事の判断を「不合理といえない」と連発しなければならなかったのは、このような多数の客観的証拠を前に、なお「不合理とは言えない」とする「弁解」を並べざるを得なかったからである。
具体的に見ると、本判決が言及した消極客観証拠は、①部下Kが山岸さん向けに作成したスキーム図(学校貸付スキームが明示されていた)、➁M学院の元理事長がスポンサー候補者向けに作った説明資料(同じく学校貸付スキームが明示)、➂元理事長が作成していたスケジュール案(学校の債務とすることが明示)、④部下Kがスポンサー候補者向けに作成した説明資料(同)、⑤部下Kが作成した協定書案(学校借入の案)、⑥部下Kが知り合いに送付したメール(学校借入についての問い合わせ)、⑦Y社長の部下が弁護士と連絡を取り合った多数のメール(学校貸付スキームや山岸さんの貸付の後にスキームが変更されたことが明示)である。そして、①について本判決は、「本件スキーム図は、原告に支払時期及び支払金額等を説明するための資料であると理解するのが自然であるといえ、原告において18億円がA元理事長に貸し付けられると認識していたことに疑義を生じさせる内容であることが明らかであった」「蜂須賀検事において、本件スキーム図が原告向けの説明資料でないと判断したことは、結果的にはその評価を誤ったものと言わざるを得ない」などとしている。また➁ないし⑦についても、「いずれも原告の嫌疑を否定し得る方向の証拠であるから、蜂須賀検事においては、これらの証拠についてより慎重に検討すべきであったといえる」とする。そうは言いながら、本判決は、「これらの証拠も他の関係証拠と併せて検討すれば、原告の嫌疑を否定するものではないとも評価できるのであって、嫌疑を否定するものではないとの蜂須賀検事の判断が全く不合理とまではいえない」として、蜂須賀検事の誤判断を免責するのである。とにかく、免責するとの結論先にありきの判断をしているようにしか思えない。
何より、問題と思われるのは、これだけ多くの客観的な消極証拠を前にしながら、本判決は、それぞれをバラバラに分断して評価し、「全く不合理とまではいえない」を繰り返したことである。刑事事件において無罪を破棄した最高裁判決であるが、最判平成30年7月13日刑集72巻3号324頁は、「原判決は,全体として,第1審判決の説示を分断して個別に検討するのみで,情況証拠によって認められる一定の推認力を有する間接事実の総合評価という観点からの検討を欠いており,第1審判決の事実認定が論理則,経験則等に照らして不合理であることを十分に示したものと評価することはできない。第1審判決に事実誤認があるとした原判断には刑訴法382条の解釈適用を誤った違法があり,この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであって,原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる」としている(皮肉な現象といえるが、近時無罪判決に対する検察官の上訴では、この判例を引用するのが常套手段となっている)。このような「総合評価論」は、当然本件にも当てはまる。起訴の違法性の判断基準について判示した先の昭和53年最判も、「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断」することを求めている。
先の①ないし⑥の客観証拠を、「分断して個別に検討」するのではなく、「総合評価して合理的な判断」をすれば、どのような結論が妥当か。「全く不合理とはいえない」どころか、「全く不合理としかいえない」というべきである。山岸さんにおよそ嫌疑を認めて起訴することなどできなかったはずである。本判決には、そのような総合評価の視点が、完全に欠落しているのである。
なお、このような分断的判断は、本判決が蜂須賀検事個人の判断にのみ焦点を当てていることにも表れている。前の記事で述べたとおり、田渕検事の可視化媒体について、総括審査検察官や特捜部長が確認しつつ、不合理な判断に至っていることが明らかであるにもかかわらず、蜂須賀検事は「可視化媒体を視聴していない」と認定して、免責しているのがその典型である。しかし、本件起訴は、検察庁が組織として判断した結果である。そこには典型的な集団浅慮(group inconsideration)が露呈している。検察庁全体の組織的な誤りこそが裁かれるべき対象である。本判決のような分断的思考では、およそ冤罪の原因究明にも、冤罪の救済や再発防止にもつながらないことが明らかである。
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