プレサンス元社長国賠訴訟一審判決の不合理性(その3)-怒鳴る検事は「法の予定している検察官」か?
- 弁護士秋田真志
- 4月8日
- 読了時間: 5分
更新日:4月9日
前の記事で、判決が「法の予定する一般的な検察官を前提として、通常考えられる検察官の個人差による判断の幅を考慮に入れても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達している場合に限られる」との一般論を示したことを指摘した上で、「本判決が示したこの一般論が、最高裁判決に沿ったものと言えるか(明らかに過剰な免責である)、別の一般論が成立するのか、定立された一般論へのあてはめが上訴審での争点になる」と書いた。本稿では、判決が示した一般論の中にある「法の予定する一般的な検察官」「通常考えられる検察官」について、若干のコメントを加えたい。
本判決は、この検察官を具体的に説明しているわけではないが、まさか田渕検事のような「違法な取調べをする検察官」を「法の予定する一般的な検察官」とは考えていないはずである。本判決は、直接的には主任検察官である蜂須賀三紀雄検事の過失を問題にしているが、本件捜査・起訴が大阪地検特捜部の組織として行われている以上、上記一般論は田渕検事の行為も含めて評価されなければならないはずである。それでは、田渕検事は日本の検察官の中で、「通常考えられない」特別な(異常な?)検察官だと言えるだろうか?すでに述べたとおり、この事件では、少なくとも総括審査検察官や特捜部部長が田渕検事の取調べの可視化媒体を視聴しながら、違法不当なものではないと判断していた。また、蜂須賀主任検察官も、田渕検事の違法取調べを知りながら問題ないとスルーしていた可能性が高い(主任検察官が最重要証人となるはずの部下Kの可視化媒体を見ていないとの本判決の事実認定は不自然というほかない)。そうだとすると、田渕検事は、日本の検察庁において、決して特別な存在ではなく、むしろ「一般的な検察官」であったというほかない。もちろん、蜂須賀検事もいわば「同じ穴の狢」である(実際、蜂須賀検事は、本訴訟の証人尋問で、自らも別件の特捜部事件で、机を叩き、大声で取調べをしたことがあると認めている)。
一定の歴史を持つ組織には、その組織特有の文化(組織文化)が生じる。検察庁もその例外ではない。むしろ、検察庁は、犯罪捜査・刑事訴追という目的が明確であるうえに、一定の独立性を保障されているゆえ、組織文化が生じやすい土壌があるといえるであろう。そして、その組織文化に染まった「一般的な検察官」が再生産されていく。田渕検事や蜂須賀検事もその一員である。目的が明確であることも、独立性も検察庁という組織にとって重要な要素である。問題は、その組織文化の内容である。
検察庁、特に特捜部には、「組織文化」として、有罪獲得のための自白(見立てに沿った供述)を取るためであれば、「強圧的な取調べも辞さない」、「多少の強圧的な取調べをしても許される」、という「歪んだ意識」が蔓延している(その独立性のゆえに独善的となりかねず、かつ、是正されにくいという問題もある)。そのような組織文化・歪んだ意識によって生み出された検察官が、検察庁組織の中で「一般的な検察官」であったとしても、それが「法の予定する」検察官であるはずもない。当然のことながら、「違法な取調べ」で虚偽供述を導く検察官を、法は「予定」も「許容」もしていない。日本の検察庁における現在の誤った組織文化を前提に、「法の予定する一般的な検察官」「通常考えられる検察官」を想定してはならないのである。
ちなみに、本判決は、最判昭和53年10月20日民集32巻7号1367号(いわゆる「芦別事件最判」)を引用しているが、昭和53年(1978年)と現在では、社会の意識も大きく変わってきている。当時はハラスメントなどの言葉もなく、暴力、体罰などの強要や精神的苦痛を与える行為に対する判断基準がまだまだ甘かった。むしろ一定程度許容されているという意識が強かったといえる。令和の現代において、そのような強要はおよそ許されない。教育界やスポーツ界、企業内での暴力的な指導や体罰、ハラスメント行為は、禁忌である。最近でも、自衛隊、有名歌劇団、オリンピック・チームなどでのハラスメント行為が、きわめて大きな社会問題として取り上げられている。どの組織であれ、時代に応じた意識改革が必要である。
ところが、検察庁内部ではそのような意識改革は見られず、旧態依然の供述強要が当然であるかのような意識が罷り通っている。そのような意識が、田渕検事の違法取調べ、それを許容する総括審査検察官、特捜部長、蜂須賀検事の態度として露骨に現れたのが本件である。
そもそも大阪地検特捜部は、厚労省元局長事件で、その強圧的な取調べに対し、強い反省を迫られた張本人である。その結果、「検察の理念」が定められ、検察官独自捜査事件の取調べの可視化が法制化されることになった。にもかかわらず、本件では、よりにもよって可視化された中で「検察の理念」に反した取調べが行われたのである。
取調べだけでない。本件で特捜部は、多くの客観証拠を看過、軽視、無視し、無視できない客観証拠については、関係者の供述を歪曲して矛盾を糊塗しようとしたのである。その中心にいたのが主任検察官であった蜂須賀検事である。およそ「法の予定する一般的な検察官」のすべきことではない。
このような本件の捜査とそれに基づく起訴を、本判決のように「法の予定する一般的な検察官を前提として…、行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達している」とは「言えない」として不問に付すことができるであろうか。
本判決は「法の予定する一般的な検察官」などと判示しているが、日本の検察の歪んだ組織文化と法との関係をどこまで意識していたのか、大いに疑問と言わざるを得ない。
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